大切な人に「死にたい」って言われた時に読む話


こんにちは、成田愛子です。

 

カウアイの寺院で息子が欲しいとねだってお迎えしたフローライトのガネーシャ。我が家の守り神です。(きっとあちらでは動いてる)

 

すんごいテーマをぶっ込んできたなあ、、、と

自分でも思います。

 

毎度のことながら、今回もとても長いブログです。

 

こういった話の苦手な方はここでブログを閉じてください。

 

繊細OF繊細な話題であることは理解しています。

 

しかし私の中の動かざる石というか岩が動いてしまったんですね。。

 

この話はオンラインサロンでしかお話せこなかったことで

サロン内ですら、24時間で消し去ったお話で。。

 

この先も外に公開する予定はありませんでした。

 

でもこれを観てしまい

私の中のお札がはられたまだ動きませんよーな

封じられた岩がいとも簡単に動いてしまった。

 

 

風の時代とはいえあと10年は動かない予定だったのに

 

宮崎駿氏は私の世界に風穴を開け

その岩を動かさざるを得ないほどの衝撃を与えた。

 

 

え。。。いいの?!いいのぉぉぉ????

 

が正直なところであった。

 

 

出していいのか、そうなのか

もう平気なのか、そうなのか

 

そんな押し問答を正直今もしながらこれをかいてます。

 

 

この話が世の中に出ることで

何が起こるかはまだ分かりませんが

少なくとも数日前の私は「燃える」と思っていたものを

出してみることにしたのです

 

 

そんな境地です。

 

最初に申し上げておくこととして、

 

このブログは決して

自殺や自死を推奨するものではございません。

 

このブログを世に出す目的は、表題の通り

 

大切な人から「死にたい」って言われた時

どう捉えていいかわからないという皆様や

助けられなくて自分を責めてる苦しんでる方に

そこで何が起きてるか?の一例の紹介をすることで

 

少しでもどこか救われる人がいたり

少しでも心に優しいエネルギーが灯されたら

 

という祈りと願いを込めてしたためております。

 

どうかそのエリアが伝わると信じて。。

 

 

ここまでが前振り←(毎度のことながら長いのでお付き合いいただける方だけがお読みください)

 

さて。

 

やっと表題のエリアに入るわけですが。

昨今の芸能ニュースや身近な方がお空に還った方、

家族や家族や大切な人からの

「死にたい」の言葉になんと返していいのかわからずに

 

 

定例文のように

 

「生きてさえいれば」を繰り返したり

「あなたには大切な人がいるんだから」

「まだ死んだらだめだ」

「そんなこと言われたら私は悲しい」

「生きろ!」

 

と言ってみたり

 

 

ぐっとその言葉を飲み込んでみたり

うっとあなたの中の何かをこらえたり

 

 

迷ったり、、

泣いたり。。

苦しんだり、、

 

いろんな想いや言葉が駆け巡ってきたことが

あるかもしれませんね。

 

 

そんな時、何が正解か?なんて誰にもわからなくて

今もなおそこに立ち返っては

たくさんの後悔を体感したことがある方も

きっと多いことでしょう。

 

 

 

ここで突拍子もないことを打ち明けるのですが

私自身、この「死にたくなる」の感覚が大変わかるんです

 

というかこの「死にたくなる」は

私の「生きる」と共に常に同居しています。

 

 

 

こういうと、皆様目を見開いて

 

愛ちゃん、、、大丈夫?

何かあった?辛いこと?追い詰められてる?

 

なんて言われたりそんな表情で見つめられたりします。

 

 

それは

 

「死にたい」という表現が

 

大変露骨で、

センシティブで

闇を感じ

 

 

なおかつ

 

とっても苦しい感情を連想させるからかもしれません。

 

 

だって誰だって大切な人には

 

「生きてて」

 

ほしいもの。

 

 

 

 

それがわかるから

その言葉を多くの人は

言わずに

「飲み込んで」

ここまで生きてきたかもしれません。

 

このブログは

「そっち側」の

飲み込んできた方々にも読んでもらえたらいいなあ

なんて思うんです。

 

 

 

 

挙手なんてしないでいいのでね。

でももしかしたら私と繋がる人の中には

結構多いんじゃないかな、とも思ってるんですよ。

 

 

 

 

みんな、言わないだけ。

 

 

だって、

 

目の前の大切な人が

言葉にならない言葉を、飲み込む姿を見たくないし

迷わせたり困らせたりしたくないもの。

 

 

 

今回はその成分分析の一例をここで皆様にしてみたいんです。

 

 

 

あくまで一例であり

全員がそうとは限りません。

 

成田愛子、といういち個人の人の中で

何が起こっているか、を聞いてみようか、、

ぐらいな感覚で受け取ってください。

 

 

 

 

話が飛んで申し訳ないのですが(ちゃんと最後に繋がるのでね^^

 

 

つい、うっかり

私先日ね

 

ぽろっとこの口からこぼれちゃったんです。

 

父に。

 

うっかりとはなんとも!

 

37年間一度たりとも両親には言ったことなんてないんですよ

なのにうっかり!ほんとに口から滑り落ちたんです。

 

 

無意識でした

勝手にこの口が言ったのです

 

 

滑ったことに気づいた時は、もう時既に遅し。

 

 

 

「ああああやってしまった

お父さんごめんなさい

悲しまないで

違うのこれはね、、」

 

 

そう頭の中でたくさんの言い訳が駆け巡ります

 

 

だけど父は

なんともナチュラルに

むしろ流した?!とおもうぐらい

 

自然に会話を続けたんです

 

 

 

え・・?

 

まじ?!

 

それが私のキョトンとした反応で

 

上記に書いたような

おおよそ推測できるような反応の

どれひとつとて父はしなかった。

 

 

 

で、その後私は

 

大切に護ってきたものが全て虚像であったことに気付いて

 

何か、が決壊して

 

どーっと涙が落ちて落ちて仕方がなかった。

 

 

 

それは安心の涙で

安堵の涙で

心から「大丈夫」に包まれた涙でした。

 

 

 

癒しの瞬間は急に訪れます。

 

 

 

(ラスボスは母ではなく父だったって話はいずれまた何かの機会に。)

 

 

 

そう

泣いてよかったのです

 

ずっと前からこうしてよかったのに

 

地球のお父さんとお母さんを悲しませてはいけない。

 

そうどこかに決めて歯を食いしばっていたのかもしれません。

 

 

 

(ああこう書くとまた心配の民たちが心配するかしら。。

これは心配してほしいわけではなく

本題に持っていくために話してます。)

 

 

この感情てゆーのが理解できない方も多いかもしれませんが

私にとってはとても自然というか

生きると共に必ず同居するナチュラルなものなのです。

 

どれくらいナチュラルか、というと

 

つまりそれは「ホームシック」のような感覚なのです

(かぐや姫が月に帰りたくなるように、違うか笑)

 

 

 

留学したとき日本が恋しくなるように

お母さんの作った肉じゃがが食べたくなるように

 

あっち、というホームに帰りたくなる時があるんです。

 

それが地球語では「死にたい」と翻訳されることがある、そんな感覚です。

 

 

保育園に預けた子供が

お母さんから離れられなくて泣くじゃない?

 

そのまましばらく泣き続けたり

途中ケロッと忘れて遊んで、

でもお昼寝の時にふ、とお母さんを思い出して

お母さんがそばに居ないと眠れない!って泣いて

 

 

おうちに帰りたいよー

 

て泣くじゃない?

 

あれ。あの感じなんです。

 

地球はいわば肉体を持たないと入園できない保育園のような。

地球という保育園で

地球のお父さんお母さんに抱っこされて

保育されて生きてきたような。

 

 

 

そんな感覚なんです。

 

 

保育園には何度もきてるよ

だからルールも知ってる

わかってる

 

 

だけど、

あっちに居た歴も相当に長く

あっちにいるお母さんのとこに、

時に戻りたくなるんです

 

 

 

だってそこは完全なる場所だから。

 

 

 

不完全を学びにきてる保育園は少しだけ

しんどくなることがあります。

 

 

この保育園での決まりにうちのめされそうになったり

立ち向かえないとくよくよするときがあったり

 

なんか知らんけど

もう帰りたい

 

そう思うことがあるんです

 

 

その保育園で「おうちに帰りたい」と泣いた子にさ

 

 

 

あなただったら

 

なんて声かける?

 

 

私たちは

地球語で

 

「帰ってはだめだ!」

をたくさん聞いてきました

 

だって帰ったら二度とこの保育園でこのタイミングに会えなくなる。

 

それがわかってる私たちは

 

だめだ!って言われることや

誰かが泣くことを予想できた時には

 

泣かないで多分限界までは堪えてたりするんだよね

 

 

それは

 

甘えることを我慢してお兄ちゃんやお姉ちゃんになった子のように。

 

 

横で泣いてる子の世話し始めちゃったりして。

 

 

 

いつか必ずおうちには帰るのだけど

お迎えにくるお母さんの速さがその子によって違うように

おおよそ本人がわかってるんですね

 

うちは大体、このぐらいにくるって。

 

 

 

だけど

わかってても

泣きたくなったら

おうちのお母さんを恋しく思ってもいいよね。。

 

 

 

父は私のホームシックを目の当たりにした時

 

否定も肯定もしなかったんです

 

 

私はそれが

 

心底嬉しかった。

 

 

 

というか大いなる安心しかなかった。

 

 

 

 

これだあああああああ

 

って思ったんです。

 

 

 

きっとその人によって解釈は違うし

ほしい言葉も違うのかもしれません

 

 

 

 

よく子供は天からの預かりもの、だなんて聞きますね

 

あれはあながち間違いでなく

 

私自身息子たちと触れ合う時

私は地球のお母さん、として預かってる気持ちになって

あちらにいる光のお母さんのとこに還すまで

大切に預かりますね、ってそんな約束をして傍にいる気がするんです。

 

だからこそしんどくもなるし

私だって娘なんだよぉぉぉーが湧いてくると急に帰りたくなったりする

 

さらに娘としての私は

「地球のお父さんお母さんを悲しませてはいけない」

という十字架を背負ってたりしてね

 

 

 

素直に泣ける横のお友達を横目に

少しの羨ましさと

泣くことすら勇気のいることとして捉えてたり

そして今回は決してドロップアウトしてはならないという

何か自分の中の取り決めがあったりして。

 

 

 

昔、息子を預けた先の保育士さんの言葉で忘れられない言葉があるんです。

 

 

長男が私と離れて泣いたんです

で、一緒に預けられたまだ赤ちゃんだった弟の側を離れないようにして

彼によってくる友達から彼を守るようにずっと傍にいて泣いていたと教えてくれた時のことです。

 

お迎えまで泣いたであろう目が腫れ上がってる彼を抱き上げながら

「よく泣けたねー^^」って言ったんですね。

 

 

 

私はその言葉を聞いて

心底安心して

この保育園にしてよかったと思ったのでした。

 

 

なぜそう思ったのか、今となってはわかります

 

 

「よく泣けたね^^」

 

という言葉に私は

 

否定も肯定もせず

その事実を受け止めるよ、というスタンスと

そんな懐の深さと器の大きさを感じたのでした。

 

 

 

 

これは完全に私の主観ですが

 

 

この星は「不完全」を学ぶ場所で。

 

だから、不完全に泣いてていいと思うんです。

 

そう、自分が泣けた時

やっと自分に赦すことができたのでした。

 

 

私は、横で大切な人が

 

または顔も知らないまだ見ぬあなたが

 

ホームシックだと泣いたなら

 

「よく泣けたね」と言える私でいたいと思うんです。

 

「よく言えたね」

 

って。

 

言えたら大丈夫ってゆー、根拠のない自信があるんです。

 

本当のところは分かりませんし

なんの保証もありません。

 

でも、

 

私自身が実際に思ったんですよ

 

やっと

 

「生きれる」

 

というなんとも言えない生命力が

お腹の底から泉のように湧き上がってきたんです

 

帰りたいをはらの底から認めたら

 

大丈夫を手に入れた。

 

 

生きなければ、が

 

生きれる、という許可になった。

 

歯を食いしばって

まだやることがある

まだできることがある

 

 

そう使命に命を燃やして

いつお母さんがお迎えに来てもいいように

生き急いで生き急いで生きてきて

 

ふ、と帰りたくなって

子供のように泣いた時

 

その涙が全部を流した

 

 

全部なくなった。

 

大切に守ってきたものも虚像となり

飲み込んできた言葉も感情も

恐れも不安も悲しみも

 

全部なくなった。

 

はっとした。

 

 

 

全てが赦されたのだと悟った。

 

 

 

ああ、やっと許可できた

ああ、やっと「生きれる」

私の生きたい私を「生きれる」って

 

 

この不完全な場所で

 

「生きたい」

 

という欲求が

 

やっと芽生えた。

 

 

 

 

そんなお話です。

 

 

 

 

これが正解とは思わないですが

こんな人もいるよってゆー話で。

 

 

これを読む人に何か、気づきのエッセンスとなれば幸いです。

 

 

 

 

ホームシックになってもいいよ。

私が許可する。

 

 

 

誰だって故郷は恋しいし

お母さんに抱きしめられたいもの。

 

 

そしてね

 

どっちにしたって、

 

生まれる時も

旅立つ時も

 

それだけは

あなたの意志だけじゃ決まらない。

 

 

あっちの許可が必要で

この地球に降りてきているし

あっちの許可が必要で

光に還るのですから。

 

私たちは光の子供たち。

 

地球という保育園に預けられ

ここでのミッションをそれぞれに胸に抱き

その不完全さを学んでいる。

 

 

都度課題を持ち

あちらへ帰り

また、ここに戻ってくる者もいる

 

次はこれをするんだ!って決めながら。

 

だからその「これをするんだ!」で挫折もする。

 

その挫折の時や

しんどいぜな時ぐらい

 

故郷を想ってもいいじゃない。

 

あの完全なる故郷を愛してやまない私たちは

時折うっかり

あっちに帰りたくなったりするけど。

 

うっかり帰りたい、ってその口が、口を滑らせるかもしれないけど。

 

 

そだよねーって

 

お母さんの肉じゃがを恋しく思う留学生のように

 

故郷を想い合い

何かのご縁で出会ったここで手を繋ぎたいんだ私は。

 

 

 

 

その寄り添いの中できっと

 

光も拡大するのでしょう。

 

 

今日もたくさんのスターシップが地球を経由して

たくさんの光をお迎えにきてます

 

あのスターシップにはまだ乗れないと横目に見ながら

 

またすれ違いざまに違うスターシップが着陸して

 

たくさんの光が上陸するのを見る。

 

あちらのお母さんによろしくと手を振りながら

ようこそ、って、兄弟のように新たな光を迎える。

 

 

隣で誰かがお母さーんって泣いた時

あなたも一緒に泣いてもいいんだよ

 

 

そんなことを想うんです。

 

 

めいちゃんが泣いた時

サツキも泣いたように。

 

 

この星には

 

ずっと泣きたかった光が多すぎる。

 

たくさん我慢して

歯を食いしばって

心配かけないように

笑ってきたみんなに

これが届くといいなあと思ってます。

 

 

「君たちはどう生きるか」

 

を見て

 

出さざるを得なくなった話の一つがこれでした。

 

まだまだ一部で

これだけじゃおさまりきれないのだけど

 

もう少しして

ネタバレしてもいい時期が来たら

 

なぜ、私が降参したか、というエリアや

出すわけがないと想ってたエリアを出すに至ったのか

私が察知したそこに描かれたあらゆる真実を

ちょこっとだけまたブログにしようかな、なんておもっていたりします。

 

 

大いなる大丈夫を。

 

 

らぶ♡

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