あけましておめでとうございます^^
バタバタしていたらいつの間にか2019年がスタートしてました。笑
Blog更新もストップしてしまってましたが
Alice Land一同元気にすごしてます^^
もろもろの発表はまたのちのちするとして
久々につらつらと書こうかな^^なんておもって
今これを書いています。
みんな元気でしたか?
年末年始のバタバタももう少しで落ち着くかな?というところかな~
わたしはというと12/31までお仕事をやりきってまして
元旦の長男の誕生日から
お正月のあれこれで
なかなか休めずに
子どもたちの学校がはじまった今、やっとひといき。
きっと世の中のおかあちゃんたちはみんなそうかな?
やっと平和な毎日が、戻ってまいりましたよ!笑
奥さん!笑
的な。
始業式の翌日から給食がスタートする学校のありがたさを
身に沁みているよ。
***
さぁ。さっそく
タイトルの
【自然と共にあること】について語らっていこうかなとおもって。
これね、
朝、
太陽見てたら
これまでのことが
わー!って降り注いできて
たまらずにブログにすることに。
**
世の中で活躍している方々いっぱいいると思う。
そんな方々に憧れて自分もそうなりたい!って
密かに想ってる方もいると思うの。
有名になりたい。
とか
お金持ちになりたい。
とか
こんなビジネスを動かしたい。
世界にむけて発信したい。
成功したい。
とにかく抜きんでたい。
もっともっと!!
高みをめざしてゆきたい!!!!!
欲求は人それぞれ
いろいろだとおもう。
目的もそれぞれにあるとおもう。
どんな理由でもいいとおもうし
わたしもかつてそんな風に憧れて動いていたひとりです。
今日ね、わたし
自分を振り返って
ひとつ大きく腑に落ちたの。
で、それを今からシェアしたいのだけど
これは決して誰かを批判したいとか
こうしてるひとはだめ!とかじゃなくって。
わたし個人のパッカンした内容のシェアとしてとらえてみてほしいな、とおもいます。
すべての人の行動の原動力が
なにであってもいい。
とわたしは想っていて。
そのひとの経てきたすべてが、その人にとって大切なことだから、
これがダメ
これが正義
とかでなく。
もっとこうしたらいいのに!とかもなく。
ただただそうなのだな、というだけのはなしで。
今回は
「成田愛子」というひとりの人間。
オンナであり母であり嫁であり
経営者であり
ソルトアーティストであり
タッチケアのセラピストであり
変態的にソルトとハーブと精油が好きな
この、いち人間のつらつら書いてることですから
まあ
流し読みでもしてもらってさ。
いいなーとおもったら人生の選択肢のひとつにでも取り入れてもらえばいいなーとおもうし
ないわーとおもったらそこでこのページをとじたらいいし
うん。そんなかんじです。今回のブログは長文です。
ただのわたし、という人間のシェアなので
このブログで世界をかえてやっぜ!とかでは全くなく。
読む方に委ね
読む方を信頼して
だしてみます^^
**
かつてわたしは根っからの頑張り教で
そして野心だらけで
鼻息ふんふんしながら
男性性?全開で
とにかく行動!とにかく努力!をしてきたことがあって。
そうやってれば確かに結果がでるのも早いし
すごい即効性があったの。
生き急いでいた当時のわたしは
それでも
「遅い」と感じてた。
とにかく満たされなくて
まだまだ!!
まだまだまだ!!!!と
原動力が「渇望」だった。
枯渇、すらしていた。
この渇きを原動力に
うめよううめよう。
もっともっと、、、と
頑張り続けてたんだ。
これまでの人生の中で何度か
大きな予測できない出来事がおきました。
大きなひとつが
妊娠・出産後にメニエールと難聴併発・自律神経等々
病名をあげればきりのないほど様々な病を経験しました。(いまはそのどれともともだちのように付き合ってます)
もうひとつはもう頑張れない。もう優等生でいられない。とあきらめざるを得ない出来事があり
ビジネスを学ぶのを辞めたとき。
このときのことを振り返っていたらね
その大きな出来事を、引き起こしたのは
すべて【自分】という【自然】の摂理だった。と気づいたの。
裏を返せば
【自然】とは【自分】であるということ。
ということは
【自然】にしたがっていれば万事OKなのだ、ということ。
このことは世紀の大発見でもなんでもなく
先人たちが当たり前にそうしてきたことだろうし
わたしたちの肉体には
まぎれもなくその【自然】がプログラミングされている。
そしてその【自然】のアラームが
わたし自身に起きた【できごと】であったというだけのはなし。
本当はもっと早くからたくさんのアラームがあっただろうに
麻痺を自分に科せていたからなのか
わき目もふらずただただ急いで生きてしまってたからなのか
全て無視してきてしまってた。
飽きれた宇宙は
大きなアラームをならした。
それは必然だったのだと
あとから振り返ってやっとわかったんだ。
当たり前を、当たり前とせず
無視してきた結果、だった。
つまりは
わたしたち人間は
どうしたってこの【自然】という波に、あらがうことはできない。
どうやったって
帳尻合わせがどこかでやってくる。
それだったら
最初からこの【自然】という名のじぶんと
ツーカーで繋がってさえいれば
いいんじゃないかな。。
そう考えたの。
すぐ周りとくらべたがり、焦りやすい自分に
【大丈夫、大丈夫。全ては順調に進んでいる】と
おまじないのように言い聞かせ
ぜったいに自分からブレない、と決めたのが
Alice Landを立ち上げた2年ほどまえの話です。
万事、パーフェクトに進んでいる。
生き急いできたわたしにとってこの言葉を自分に投げかけることは
なかなかの苦行でした。
だって周りを見渡せば
もっとできてる人、いっぱいいる!
もっと私の実現したいことをかたちにしているひと、たくさんいる!
もっとPVをあげてもっと認知度あげて
もっと知ってもらって
いいね!もらって!!!!
さらには
他人だけではなく
自分の求める希望どおりに
望み高く動くには
タイムラグが起こることがきつくてきつくて。
早くしないと!!!
早くしないと間に合わない!!!!
と
何かに掻き立てられて生きてきた私にとっては
他者が比べる対象でなくなっても
ずっとつきまとってきた大きな課題だった。
最終的には己との対話、だった。
他者どうこうから離れても
ここからはなかなか逃れられなかった。
早道、とされること、ほんとは全部片っ端からやりたかった。
もっと行動したかった。
もっとできるのに。
もっと本当はわたし、できる人間なのに。
悔しい!
悔しい!!!!
頑張ろうとすると
子どもが泣く。熱を出す。
予定通りになんて何も進まない。
息があがる。
ならば状況でスケジュールを埋めてしまえば!
追い込まれればやるしかない!と
追い込んでみると
眩暈で数カ月は動けなくなる。
そんなふうに渦巻いてた時が
たしかにありました。
Alice Land をたちあげたとき。
わたしは静かに決意したの。
【自然】に逆らわない、と。
それは
これからの自分への宣言でもあった。
このお仕事は
自然の恵みを扱うお仕事であり
自然と一体となってないと
でき得ないお仕事だ。
つまりそれはイコール、
【自分】に逆らわない
という意で。
世間の動きを察知することが
どれだけビジネスを動かすのに大切かもなんとなく体感で知っている。
アンテナをたてること。
計画をたてること。
行動すること。
トライ&エラーを繰り返し
努力をすること。
それを継続してゆくこと。
これがなによりも大切だって
身をもってして学び、心得てたつもりだ。
私なりにね。
それまでは
極限までやってみたこともあった。
1日2時間ねれたらいい、ぐらいな日常ももちろんあった。
やってみると
色々わかる。体験として。
判断力の鈍ることや
チームとしての動きのばらつき、とか
自分の力では
どうしようもできない「なにか」が目の前に現れたりしてさ。
結果
わたしは
そうだった。人間だった。
しかも
オンナだった。
じぶんとて自然の一部だった。
と気づくに至ったんだ。
完璧になんて動けない。
休まずに動くこともできない。
それは努力が足りないからだよ、と言われてもおかしくないし
行動力も足りない、とも言われてもおかしくない
なによりもその声は自分の頭からの「責め」の声だった。
「なんだよ。
もっとできるだろ!?!?!」
って
そう自分を責める声が聴こえてくる。。
だけど
じぶんの出すアラーム・自然の流れに
逆らうことはもうできなくなっていたんだよね
オンナであることを認めることは一種、わたしにとって
オトコも女もない!
女だからってできないことはない!と
勝手に粋がってきたわたしにとっては
声も出ぬほどの悶絶だった。
オトコとかオンナとかそんな議論無駄!ぐらいな
会社員時代はとくに
殺伐とした可愛げのない女だったとおもう。
行動した。
兎に角
努力した。
オンナだからってなめられちゃいけない
子どもいることをデキナイ理由にしちゃいけない
そう、どこまでも
強がった。闘った。
何度も頑張り教と病をいったりきたりしながら。
でもその大事にしてきたその世界が破たんしてしまったとき
崩壊してしまったとき
わたしは、
行動と努力、、
それだけじゃない世界をみてみたいとおもった。
いつだったか、
ふ、と
天をあおいだとき。
もうしばらくずっと、景色すらみようともせず
ただまっしぐらに駆け抜けてきたのだと
涙がこぼれてこぼれて仕方がなかったときがあった。
たいわしてこなかった。
じぶんとも
自然とも
どうせわからないだろう、が常にあった。
信頼してこなかった。
この世界は
闘い生き抜く
世界だと思い込んでいた。
そうでないとやってけないとおもってた。
美しいものをみて、
美しいと頭ではわかっても
体感として
魂レベルで
細胞レベルで
感動することがね、
麻痺しすぎるとね、
なくなるんだ。
当時
頬にふれる風の冷たさに
こんなに温度を感じたのは久々だと
おもったほどだった。
生きてるのに
そこに肉体はあるのに
存在してないようだった。
あんなに行動、してたのにね。
努力、してたのにね。
わたしはわたしを取り戻しに
過去の何次元もとびこえて
恐ろしく時間をかけて
立ち止まった。
そして
すべては
わたし自身が
この身体をつかい、
ごく自然と、ナチュラルすぎるほどにナチュラルにおしえてくれて来たのか、と
いう結論に至ったのです。
病のときも
ビジネスで挫折したときも。
沢山失敗した。
沢山まちがえた。
沢山恥ずかしいおもい、した。
ほんとなら
かっこつけたいし
なかったことにしたいこと、たっぷりたっぷりあるよ。
***
ここまで読んで
はて。このひと、
結局なにがいいたいの?
となってるひともいるかもしれにゃい。笑
ので結論を。笑
**
今、世界のなかで目立っていようとそうでなかろうと
結局はじぶんがどう在りたいか、ということに尽きるとおもった。
名声を得たって孤独なひとは沢山いるし
お金を沢山稼いだって常に不安の中にいるひともいる。
自分からのアラームを無視し続け、麻痺させつづけることが
一時的に必要でそうなってる人も多いのも知ってる。
それにそれを望んでそうなってるという人が多いのも知ってる。
私自身もそうだったしね!
すべては必然だ。
だけどもしいま、
道に迷ってる人がこれを今このタイミングで見たのなら
こんな生き方してるひともいるんだー
ってなんか希望になる人ももしかしたらいるのかもな♥とおもってみたりしてます^^
わたしは
自己評価になってしまうけど
人一倍努力も行動もしてきた。
プライドというプライドをすて、
後ろ指さされることも沢山覚悟した。
そう手当り次第とにかく動く
わたしをみて、
笑ったひともいるだろうし
痛々しすぎで見てられない、とそっとフォローをはずした人もいるだろう。
死んだ魚の目をして
必死に頑張ったときもあった。
私をみて変わってしまった、と嘆いたひともいるかもしれないし
昔はこんなひとじゃなかった、と違和感を覚えたひともいただろう。
これを読んでるひとの中にも、
当時のわたしをみてそう感じたひとがもしかしたらいるかもしれない
たくさんの人が離れていった。
たくさんの嫉妬もあびたし
マウンティングにもあってきた。笑
代わりに沢山の出逢いもあったけどね^^
あと意外にこっそり読んで応援してくれてる人が多いこともわたしの小さな希望になったりしてました^^
圧倒的行動力・行動量だね!なんて
褒めてもらったりもしてきた。
でも圧倒的痛みもそれと同等に感じてきた。
そんなわたしが
結局最後にたどりついたのは
【自然】と共にあるということだった。
もちろんものごとを動かすには
ある程度の努力も行動も必要だろうし
それ自体を否定したいわけでは決してない。
行動も
努力も
大事なことだと思う。
だけど
結局
結局
どんな大きなプロジェクトを動かしていようとも
一家庭の主婦として息をしていようとも
動かす額や人の量の大きさがおっきくなったほうがすごいとか
そーゆーんじゃなくって。
どっちのエネルギーも本物で。
どっちのエネルギーもたいせつなエネルギーのひとつ。
なにを大切にしたいかはその人次第で。
どんなビジョンを描いてるか?もその人次第。
波紋の大きさだけにとらわれたり
するわけではなく
どの状態が自分にとっての【自然体】か?
という問いかけですべては解決する。
わたし自身のはなしがつづいてしまうけど、
わたしは
幼いころから生理痛が重く
生理はわずらわしいもの、として生きてきた。
邪魔だった。
出血と同時に鎮痛剤を飲んでた。
会社員時代は
営業成績や、営業先のかたの名前・癖・趣味嗜好などばかりを覚え
つとめて人に気に入られることを意識し
認めてもらえること
褒めてもらえることに喜びを見出していた。
人の役に立ちたいとおもってた。
あれこれ先回りして【成田さんて使えるね!】って言われるような行動を心がけてた。
自分の生理周期など全く覚えもしてなかった。
覚える気すらなかった。
そんな折、息子がおなかにやってきた。
はじめて自分の「女」としての弱さを痛感した。
薬が飲めなくなったのだ。
麻痺させることもできなくなった。
鉄壁のようにおおってたものが
妊娠して、あっという間に崩れた。
休まざるを得ない状況。
容赦ない身体からの発信。
じぶんは、こんなに弱かったのか。
そう知ったと同時に
いままで「完全無敵」とおもってたつよさは
ただの強がりであった、と偉大なる存在に気づかされた瞬間だった。
そうだった。
わたしは
弱かった。
弱きおんなだ。
そう悟った瞬間本当の意味で
強くなった。
お産とは
十月十日を経ての母親への愛のプログラムであり
我が子という宇宙からのミッションでもあった。
そこでほんとうの「弱さ」と「強さ」を学ぶようになっていた。
このプログラムを経たわたしって最強じゃね?笑
ってなったりしてね(子どもうまなきゃ○○じゃないとかそういうはなしじゃもちろんない)
初めての大きなアラームは息子だった。
だから彼の存在はわたしにとって本当に大きな意味をもっていて。
そう考えると自然と世の中のお母さんたちに
リスペクトがわいてわいて
しかたないのです。
女性のカラダの神秘にひれ伏したくなるし
すべての前提が
覆るような
宇宙がひっくり返るような
そんな体験をしているのです。
月1回必ず来る自分からのメッセージである生理をガン無視してきたわたしが
いまはその生理の尊さや
女性としての波の中で生きることを伝える仕事をしていたりする。
子育てをするママのホルモンバランスやバイオリズムのなかで
生きることの素晴らしさ、みたいなのを伝え歩いていたりする。
オンナであることは仕事には関係ない!とおもってたわたしが
母親だからって子どもを理由に仕事をやすむなんて考えられもしなかったわたしが
毎朝起きた瞬間に
仕事するかどうかを決めるようになった。
スケジュール帳びっちりだったバリキャリ気どりのわたしが
スケジュール帳すら持たなくなり
予定は予定でしかない、ととらえるようになった。
ゆるい。
ゆるすぎる。
多分この姿を10年くらい前の私が見たら
気絶しちゃうんじゃないかとすら思う。笑
すべては自分の波にそって生きる。
誰かの決めたスケジュールでなく。
わたしの波に沿って動く。
(もちろん大切な約束をほっぽりだすようなことはほぼないけれど)
(というのも約束というものをあまりしなくなった)
10年前のわたしからしたら
社会人としてあるまじき行為だとおもう。
だけど
すこぶる体調がいい。
そして
夫は会社員を辞め
わたしの傍にいてくれるようになった。
ぜんぶひとりでがんばる必要がなくなり
わたしらわたしの歓びに従って生きることができるようになった。
ただならぬ安心感です。
願った世界がいま
目の前にある。
自然と共にある、と決めただけだった。
生理のときは、迷わず休んでいる。
そして女である自分を
ママである自分を
めちゃくちゃたのしんでる。
今までを取り返すかのように
よく休み、よく笑ってる。
よくゴロゴロし
毎日太陽の光を浴び、
空のうごき、
風の温度、
海、山。草木と共にある。
月のかたちをよーくみて夜を迎え
四季の中でちょっと寄り道、ばかりして生きている。
早足で新宿の地下道を歩いてたときには
考えもしなかった。
息をぬく、という時間のなかに
この間、をとれるかどうかの余裕に
食材と語らいながら
歓びにみたされながら調理して。
好きなものを
旬なものを
いただく歓びを得ている。
万事これだけでokだと
いつもおもう。
年商だけですべてはあらわせないけれど、
それでも年商もこれまでで最高、を毎年更新している。
上を目指せばキリがないけれど、
毎年すこしずつ
ひとつひとつ
できることを増やして
つぎはあれやったらたのしそう。
もっとこんなことしてみたい。
と
スピード感はおもったよりゆっくりかもしれないけれど
大切なわたしのマイ・ペースが
くっきり
はっきりと
掴めているという実感があります。
ちいさな成功体験の積み重ねでしかなく
世界を信頼してみることから始めるしかなかった。
愛のなかで生きていると
不思議と焦ることもなくなって。
大いなる大丈夫、を感じるまでになった。
大いなる大丈夫のなか、
1/11には法人化する運びとなっています。
闘うことを辞めたら
こうなった。
努力も行動も必要だったけど
それよりも
もっと必要だったのは
自然と共にある、ということだった。
いまのわたしは
美しいものをみて
全身が震えるほど
涙が出るほどの
感動を
毎日のようにしている。
努力は大事。
行動もすんごく大事。
でも
前提として
わたしの生きる目的はなんなのか
なんのためにそうするのか?
どうやって生きたいのか?
なにをここでしたいのか?
誰かに褒められるため?
得たい結果を得るため?
あこがれの世界へいくため?
賞賛がほしい?
反骨心?
そのひとによって、それぞれだろうけど
どれであっても間違いなんてことはなくて
ただただ、
それと直面したとき
もしくは直面させられたとき
本当の自分の
ちいさなちいさなきもち、に
出逢うのかもしれない。
**
メニエールで世界がぐるぐるとまわっていた時。
わたしは働けなくなった自分を呪った。
本気で、役立たずだとののしった。
どうしてこんなことになったのか
病になるなんてなんて弱いやつだ、と。
えげつない暴言を自分に浴びせまくった。
だけどあのアラームに
今、のわたしはね
心から感謝してる。
いまでも夢中で仕事しちゃうと
耳が聴こえにくくなったり
めまいもおこる。
わたしにとっては
「そろそろ休む選択を」というアラームにかわった。
ビジネスの勉強をしていて
優等生でいられなくなったときの強制終了、挫折では
そもそも
必要なかったのだ、と納得いった。
わたしにHOWTOなんて
必要なかったのだ、笑
だけど、大切な体験だった。
すべてはじぶんという自然・宇宙とのたいわで。
直観、という理論では決して説明できないものを
今大いにじぶんの仕事に役立ててたりします。
ちっとも計画性はないし
なんか、、あやしいし?笑
信ぴょう性もあんまりないだろう。
加えて扱ってる商品はソルトだし、
スピリチュアルってなんか、
なんか、、宗教っぽいし?
あやしさのフィルターでみられたらめちゃくちゃアヤシイのかもしれない。
オカルト、と片付けられることも多いのかもしれない。
けど、
それを大真面目にやってます。
いたってまじめに。
ナチュラルに。
それは
ごくごく自然なことで。
生命の誕生ほどの神秘。
じぶんという自然のエネルギー体の声を
きかないということは
極めて
不自然なんだ、、というところまで
やってきました。笑
だからこそ
いま
自然と共にあることを選んでます。
そして、
そうすることを
堂々と
こうして宣言できるようにもなりました。
わたしはどっちかというと
いかにナチュラルに
自然の中で
それを体現するか、みたいなところに重きを置いていて。
それは人類にとって、当たり前なことで
ナチュラルなことなんだよって
時代の橋渡し的なことができたらよいなーと
心の片隅でおもっていたりします。
みんな、自然にはさからえない。
じぶん、という自然の一部を
どう表現するか。
そんなところを感じながら
ただただここに在ることを
感謝して過ごしています。
本当の幸せって
本当の願いって
ほんとはすごくシンプルで。
これを読んだ人のハートが少しでも
自然のなかにいるときみたいな
清々しい風をふかせたらいいなぁとおもうし
おだやかであったらいいなぁと
祈り、こっそり願ってます。
愛のなかで
自然と共にあれ。
本当の幸せは
静かに静かにやってくる。
華やかなパーティーのときでも
ご馳走をたべてるときでもない。
朝日をみて
ああ綺麗だなって
こころが震える美しさを感じているとき。
息子たちとお風呂にはいっているとき。
夫の運転ででかけるとき。
家族みんなでゲームしてるとき。
森の中を散歩してるとき。
猫をなでてるとき。
ハグをするとき。
わたしのつくったもので
だれかが幸せになったとき。
何気ない、毎日のなかに
わたしの幸せは
散りばめられてる。
どんなに会社が大きくなっても、
やることがかわっても
きっとそれは変わらないだろう。
わたしの大切な幸せのベース。
ちいさくて おおきな
わたしのブレない自然の叡智だ。
長くなってしまったけど
最後まで読んでくれてありがとう♡
愛をこめて。
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